早朝木曜礼拝

祝福家庭と理想天国(Ⅰ)

祝福と理想家庭

第一章 創造理想と男女の愛

第二節 真の男女の愛

7、愛には発展も革命もない

愛には革命もなく、発展も退歩もないのです。(174)

愛には発展もなく、どんな革命もありえません。

愛は原型そのままが完全なものであり、

不変で永遠で絶対的なものです。(175)

愛は発展もなく革命もないのです。

愛が永遠で完全なことは、永久不変の真理です。

ところで愛が発展すると考えて試験してみようと思えば、

それは間違った考えです。

愛を生活の手段として考える米国は、

そのような意味から滅亡するしかないのです。

神様はそのような米国の未来を祝福してくださるはずがなく、

米国自らが滅びなければ先生が

愛の爆弾を爆発させても滅ぼすのです。

はっきりしていることは、

愛が生活の一つの方便や手段に利用されては

絶対にいけないということです。(176)

……………………。

8、愛は極めて自然なもの

先生の幼いときにあった話ですが、

ある日、鳥を一つがい捕まえて、

二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。

二羽が互いに口づけするのを見るために、

巣を作って餌をあげながら観察したのです。

その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい

子供心からそうしたのです。

それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、

一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。

今考えれば、全く意地悪な行いを(よくも)続けたものです。

愛は自然な中に築かれることを長らくして悟ることができました。

愛は自然な中、

最高の自由な雰囲気の中でなされるものが真の愛なのです。

先生が愛について正しく知っているのは、

長年の実験を経てはっきりと分かるようになったのです。(182)

先生が幼いとき育った村は田舎だけに

季節が変わるごとに渡り鳥が訪れ、

季節ごとに違った花がたくさん咲く環境の中で成長したのです。

先生が幼いときには韓国のどこに行っても季節がはっきりしていて、

季節が変わるごとに美しい自然と出合うことができました。

今日のソウルは一日中歩いても自然と出合うことができず、

みな人為的景観のみを感じる索漠たる都会地になっていて、

悲しみを覚えもします。

このような都会の環境の中で育った人間は、

情緒が不足し、自然の神秘や美を感じる機会がなく、

乱暴だったり、

個人主義の性格をつくりやすいことを知らなければなりません。

自然との出合いの中でなされる交流は、

人間をして多くのことを学び悟らしめるのです。(183)

……………………

米国 サンクチュアリ教会は、大自然の中にあります。

889 Main St PO Box 557, Newfoundland, Pennsylvania

tel, +1 570-832-4476

http://www.sanctuary-pa.org/

我が家も、夫婦と長男の3人で奈良県と三重県との県境にある、

大台ケ原に秋の紅葉見物に参りました。

京都の寺院に作られた庭の美しさに勝るのか

妻は終始、感動で声をあげていました。

さて、2世の統一教会・世界統一家庭連合離れが激しく、

真面目な会員であればあるほど、

献金献金で納豆ご飯、紅葉見物に行く余裕などない。

韓国教会の政治家たちは裕福に暮らしていて

そんなことも関係ないようです。

いえ、政治家は当たり前のことです。

さて、今こそ真の自由になった私たちは

神様からの神性を心行くまで体感いたしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

愛が生活の一つの方便や手段に利用されては

絶対にいけないということです。(176)

天使長に利用されたあげく、夫婦のうちどちらか一方が

サンクチュアリ教会に賛同し始めると、

判の押したようにいう言葉は、

「離婚する。」です。

天使長・政治家たちはイエス様を十字架にかけました。

民衆をたきつけて、救い主を十字架にかけて

イスラエルの民を永遠の罪に定めたのです。

離婚原因調査

男女別では、男性が女性に比べ多い動機が「性格が合わない」等であり、

女性で男性に比べ多い動機が「暴力を振るう」、「生活費を渡さない」等です。

「性格が合わない」という理由が多いのも驚きです。

最近は、恋愛結婚が9割以上ですので、 少なからず結婚前の付き合いで、

相手の性格もわかるはずだと思うですが。

また、相手の性格も踏まえて、

一緒にいたいという理由から結婚しているはずなのですが、

皮肉にもそれが離婚理由にもなっているのです。

このように考えると、結婚してから相手の性格が豹変する、

または、 暮らしてみて初めてわかる性格がある、

という風に捉えることができます。

最近、よくテレビ等でも問題となっている、

ドメスティックバイオレンスも女性の離婚理由として、

順位を上げてきているのは、注目すべき点だと思います。

※参考
離婚後の悩みの統計データでは、

男女ともに「子どものこと」の割合が高く、

それ以外では、男性では「家事のこと」、「再婚のこと」、

女性では「経済的なこと」、 「就職のこと」等の割合が高くなっています。

夫婦の役割分担が広く行われている現状を反映して、

男性では家事、

女性では仕事に関することや経済的なことが

大きな問題となっているようです。

http://philosophy.blogmura.com/worldpeaceandunificationsanctuary/img/worldpeaceandunificationsanctuary88_31.gif

10月28日水曜 早朝礼拝

10月28日水曜 早朝礼拝

祝福家庭と理想天国(Ⅰ)

第二節 真の男女の愛

6、男性は志操、女性は貞節
……………………………………….。
P471
世の中に数多くの男性たちがいても、わき見をしてはいけません。

どのような男性でも、統一教会の女性を思いどおりにすることはできないのです。

危急の時にはみんな命を断つか、刃物で相手の腹を突き刺して殺すか、

二つのうち一つをとるのです、分かりますか。

貞節は命よりも貴いものです。

皆さんの夫が愛することのでき、息子や娘が愛することのでき、

国が愛することのでき、世界が愛することのできる歴史の道、

それが女性によって開かれるのです。

このような、女性の美と高貴さと

情緒的な伝統が輝きえる基盤を築いているという

厳粛な課題の前に、

皆さんは真実と真の姿をもって、

ありったけの誠心を尽くさなければならないのです。(166)

皆さんは今思いのまま愛することができるようになっていますか、

できないでいますか。

道で男性からふいに声をかけられて、

ついて行くようになっていますか、なっていませんか。

ついて行きません。

皆さんはついて行くようになっているでしょう。

(笑)そのような素質をもっていてはいけません。

皆さんは時が来るまで、自分の体をよく守らなければなりません。

純情を化け物のような男性にゆだねてはいけません。

街頭で威張りちらして、ぶらぶらして役に立たずにいる男性たちは、

全部化け物たちです。自分の運命をそのような男性にゆだねますか。

これは簡単な問題ではありません。一生に一度しかないので、

一歩踏み違えた場合には自分の人生が狂ってくるのです。

そうでしょう。これは男性にもいえるのです。

それゆえに、今までは女性に貞操を守れと言いましたが、

これからは男性も貞節を守らなければなりません。

そうしてこそ復帰されるのではないでしょうか。

いくら世の中が悪く、せち辛くても、

皆さんは行くべき正道からはずれる行動をしてはなりません。(167)

青春時代に純情を失ってしまった

アダムとエバの恨みを踏み越えて蕩減できる貴い時期である思春期に、

純情を汚してはならないのです。

その純情をきれいに貴く保存して

「千年、万年一人で行っても、愛が蹂躙されることは絶対にあってはならない」

という志操と決意をもたなければならないのです。

民族を愛し国を愛さなければ、

自分が愛することのできる人と出会うことができないのです。

世界を愛さなければ、(自分が)愛することのできる人をもてないし、

神様を愛さなければ、愛する人をもつことができないのです。

これは統一教会の伝統的思想です。

ですから神様を愛し、世界を愛し、民族を愛した後に、

自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。

これが原則なのです。(168)

ある男性たちは自分の妻がいてもきれいな女性を見れば、

自分の妻だったらいいのにと思うのです。

このように二心をもった男性を指して、

泥棒の心をもった(人)と言います。

二心から始まったのがサタンなので、二心をもった男性を指して、

サタンといっても間違いありません。

そのような人々がいたら、サタンにほかなりません。(169)

男性も貞節を守らなければならない時が来ています。

男性が貞節を守ることができなければ、

その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。

大臣だといっても、浮気をしてもいいようになってはいないのです。

男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。

そのような時が来ているのです。

統一思想を知るようになれば、そのようなことはできません。(170)

これからは、男性も貞節を守らなければならない時代です。

男性も貞節を守って歴史的な純潔の伝統を残さなければなりません。

イエス様の血と肉を食べる儀式は、

イエス様の純潔なる血と肉の伝統を立てるためのものです。(171)

女性は貞節、

男性は志操(度胸)という言葉があります。

この言葉はどういう言葉かといえば、

み旨(愛)を成就するための貞節であり、

目的を果たすための志操なのです。

ですから女性は貞節というからには、

一つの愛のほかは知らないでこそ成され、

男性は志操というからには、

一つの目的だけのために精進してこそ成されるのです。

アダムとエバを中心にして見るとき、

自分が行く道を知り、

志操と貞節を守らなければならなかったのに、

守れなかったので堕落したのです。(172)

男性は神様の愛を中心として女性を愛するときに、

「完全に愛した。初めから終わりまで永遠に変わらず愛した」

と言える立場に立たなければなりません。

また女性はそのような立場に立つために、

自分の身を固く封じなければなりません。

数多くの花びらが幾重にも重なり合っている

芍薬(シャクヤク)の花のように、固く埋めておかなければなりません。

そして春という天地の調和に合わせ、

そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。

これを正しくしなければなりません。(173)

………..

真の血統を残すということ、

この重大な使命を、

中心者が言うことを信じて従って行けば大丈夫だとか、

献金をしていれば、神様がなんとかしてくださる。

などという、妄想に取りつかれていませんか。

責任者とか言う人が、「信じて行けば必ず、報いてくださる。」

と言ったとき、皆さまはそれを信じてよいのですか。

真理を求めてきました。

これからも、真実を求めて、求道者の道を歩みつずけましょう。

「芍薬(シャクヤク)の花」の画像検索結果

サンクチュアリ教会ブログランキング参加用リンク一覧
にほんブログ村に掲載中サンクチュアリ教会を、クリックして下さい。

PAニューファンドランド・サンクチュアリ本部教会に行きたい方へ

PAニューファンドランド・サンクチュアリ本部教会に行きたい方へ。

洋介のブログから

先日、どのように、日本から来られる人達を受け入れるかについて、会議を持ちました。

私を入れた日本人3人と、総務のTimで、先回の反省に基づいて会議し、少しだけ決まりました。(総務ではなく世界宣教部長ですね。総務と言ったら本人から否定されました。)

注)公式ではありません。

*サンクチュアリチャーチでは、受け入れの手配をしない。

まずは、人手が足りない。受け入れるチャーチの施設(寝泊り、食事場所など)がないので、チャーチとしては受け入れができない。

それで、現在のところ、こちらへ来られる場合には、

こちらのメンバーに直接相談してください。

それか、日本サンクチュアリチャーチや、埼玉サンクチュアリチャーチなどに相談してください。(埼玉サンクチュアリ=cyberサンクチュアリー埼玉教会、もちろんcyberサンクチュアリーもOK)

<滞在費用の概算参考>()内は、メンバーによる送り迎えの費用。

こちらに来られる時の飛行場は、直行便では、Newark(EWR)にしてください。(往復費用75ドル)

乗り換えできるなら、スクラントン(AVP)が便利です。(往復費用30ドル)

JFKは、往復の時間と、通行料金がかなりかかりますので、できるだけお避け下さい。(往復費用150ドル以上)

メンバーの家に滞在される場合は、一人一泊$50ドル、家族で、夫婦二人だと、一泊75ドル、プラス子供一人につき15ドル増し。食事+交通手段込み。

ホテルに滞在される場合は、だいたい一部屋4人まで、100~200ドルぐらいでたいていのところは、朝食が付いてます。

——————————————————————————-

これは、場所により違います。夫婦でも一泊100ドルのとこもあるし、個人なのでまちまちだったりします。

話と違うではないかと怒らないように!臨機応変_相談姿勢で。

英語が少し出来る人なら米国人宅が余裕があるかも。日本人を泊めたがっている人もいるようです。

http://philosophy.blogmura.com/worldpeaceandunificationsanctuary/img/worldpeaceandunificationsanctuary88_31.gif

火曜礼拝 皆さんはこれから、家庭を中心として天国理念を立てていかなければなりません。

祝福家庭と理想天国(Ⅰ)

第一章 創造理想と男女の愛
第二節 真の男女の愛

6、男性は志操、女性は貞節

皆さんはこれから、家庭を中心として天国理念を立てていかなければなりません。

ですから皆さんは、家庭について深く考えなくてはなりません。

家庭の王者とならなければなりません。

歴史的な面においても主体の王者にならなければなりません。

そのためには、男性が貞節を守っていなければなりません。

男性が貞節を守ってこれを全うしなければなりません。

今までは女性の貞節を強調したでしょう。

エデンの園で誰が貞節を失ったのでしょうか。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

女性が失ってしまったのですか、
男性が失ってしまったのですか。

「女性です」。女性なのですか。男性も失ってしまったのです。

^^^^^^^^^^^^^

エデンの中心である男性も失ってしまったのです。

アダムがエバのところに誘惑されて入り、

結局は本来根である男性まで切られたのです。

女性であるエバが、

男性であるアダムを堕落させたのです。

それを蕩減するために、

今まで女性が男性に蹂躙されたのです。

そうでしょう。

女性たちが男性たちに蹂躙されるのはそのためです。

だから先生が女性を解放させるために、

男女平等運動と女性解放運動をするのです。

それは世界のどんな人よりも、

後世の人々のためにしなければなりません。(164)

.1c8333d8-328f-44ba-a71f-bca63f1f7730

……..

どう見ても御父様の否定としか思えない行為を正当化するにおいて、

FFWPU家庭連合はひたすら御父様のみ言を引用する。

お父様のみ言(=お父様の権威)によってのみ

正統性がもたらされることを暗に認めている証左である。

お父様の権威とお母様の権威が同等なら

「私は母の胎中で血統転換」

「お父様はイエス様に出会ったとき、独生子の資格を得た」

「独生子と独生女は同等。独生女は独生子から教育されていない」

というお母様の言葉だけで十分ではないか。

私たち食口はお父様の権威の根拠を神様以外の他の人間に求めはしない。

お母様の権威の正当性をお父様のみ言に求めるということは、

お父様が絶対的主体であり

お母様が絶対的対象であることの必然ではないか。

家庭連合は

御父様の権威の否定を

お父様の権威(み言)で正当化する矛盾に陥っている。

1c8333d8-328f-44ba-a71f-bca63f1f7730

最近麗水で用いられた

この(非)原理教材もパラドックス(一見正しく見えるが正しいと認められない説)だ。

パラドックス(逆理)は本来、人間の思考に尽きぬインスピレーションを与えてくれるものだ。

有名な「アキレウスと亀のパラドックス」。

110年前、当時の数学界を震撼させた「ラッセルのパラドックス」。

更には人間の理性の限界を厳密に証明した天才数学者・論理学者

ゲーデルの「不完全性定理」のベースにある「嘘付きのパラドックス」など、

非常に哲学的に生産的なものが多い。ところがこの

「家庭連合のパラドックス」はいささかの味わいもない。

数学という純粋論理の世界に

「背理法( reductio ad absurdum )」という証明手法がある。

例えば「三角形の内角の和は180°ある」と言う命題を証明するためにあえて

「三角形の内角の和が180°でない」という

仮命題から出発して論理的推論の積み重ねの結果、

明らかな矛盾が出る。

よって「このような矛盾が起こるので、

最初の命題に誤りがあり、三角形の内角の和はやはり180°だ」と結論する。

*注:この例においては非ユークリッド幾何学は想定していません。

また、三角形の内角の和が180°である証明には普通、背理法は使いません

この論でいけば、

家庭連合は

「御父様の権威でお父様の権威を否定する」という矛盾に遭遇している、

よって家庭連合は間違っている(偽である)と結論できる。

にほんブログ村に参加しています。クリックをお願いします!

http://philosophy.blogmura.com/worldpeaceandunificationsanctuary/img/worldpeaceandunificationsanctuary88_31.gif

おはようございます。 以下の内容に注意してください。と家庭連合がサンクチュアリ教会に対する批判文をメール配信しています。           

おはようございます。
以下の内容に注意してください。
疑問質問は直接教会長まで連絡ください。
今日も1日よろしくお願いします。祈り
天地人真の父母様の勝利と栄光を讃美し、
ご聖恩感謝申し上げます。
8月8日の公文でお知らせしたように、
江利川安榮氏を中心とする
「日本サンクチュアリ教会」は
真の父母様の勝利圏を否定し、
≪≪≪≪家庭連合が、お父様の後継者・相続者である亨進様をないがしろにした結果の事である。つまり家庭連合の罪状を糾弾しているのである。≫≫≫≫ビデオに残されています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fTEHPP9aP9Q&w=640&h=360]
祝福結婚を否定し、
家庭連合を批判し、
清平役事を否定しながら分派活動に走っています。
とりわけ最も心痛いことは、
真の父母様によって挙行されてきた
祝福の聖域を犯し,独自の祝福式を行っていることです。
彼らはこれを、
「真のお父様の権限に帰るための祝福式」と称し、
米国サンクチュアリ教会の下で、独特の解釈をして、
勝利された真の父母様が、
その生涯をかけてサタンから勝ち取られた
最大の業績である祝福を破壊しています。
10月17日米国サンクチュアリ教会は、
次のような通達を出しました。
天暦 9月日(陽10月15日)の会議で確認され、
決定された内容を以下にお知らせいたします。
1.真のお父様の権限に帰るための次回の祝福式は、
天暦7年 1 月6日
(陽 2016 年 2 月13 日)に行われます。
なお、家庭連合の偽りの祝福によって、
(神様の祝福を受けずに)家庭を出発した
二世家庭への特別恩赦も、
この日まで延長されます。
この日を過ぎるとこれらの家庭は一世となり、
その間に生まれた子女も一世として扱われます。
2.先祖解怨式を天暦 10 月 25 日
            (陽 12 月 6 日)に行います。」
これは真の父母様の祝福への冒涜であり、
私達すべてが賜った祝福への挑戦です。
以下に真の父母様による
祝福の伝統に抵触する問題点をお知らせします。
1.マッチング祝福を授ける権能(祝梼権)は、
これをサタンから勝ち取られた真の父母様以外、
誰にもありません。
≪≪≪≪≪お父様が勝ち取られた権能(祝梼権)を、お父様の後継者・相続者である亨進様に、真の父母様祝福伝授式をされ韓お母様もアージュと宣誓している。≫≫≫≫≫ビデオに残されています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=SbEF2EzQjW0&w=351&h=197]
彼らは、聖酒を真の父母様のご指導された原則を破って、
新たな方法で増やして使用しているので無効であります。
2.基元節聖酒は、すでに 2012 年真のお父様ご在世の時に、
基元節に使う聖酒を準備しなさいという特別指示が成され、
その上で真の父母様の深い精誠の下で作られたものであり、
これを通して私達の入籍が赦されるものです。
3.彼らの祝福式に参加することにより、
一世二世を問わず既に授かった祝福家庭が破壊されます。
具体的に二世家庭の一方が参加したことにより、
相対者が困惑している事実があります。
4.一世二世共に、マッチング祝福は
真の父母様の祝梼を受けて成立します。
5.父母マッチングやサンクチュアリ教会内部での紹介で、
マッチングされても真の父母様の祝福を賜らなければ、
祝福家庭として成立しません。
6.尚、サンクチュアリ教会の祝福式に参加した方で、
もう一度真の父母様の祝福に復帰を希望される場合については、
後日公文にて連絡いたします。
全国の祝福家庭の皆様。
以上のように祝福とは、
天地人真の父母のみが権限をもたれる方であることを再度確認して、
彼らの勧誘に相対しないよう注意して下さい。
以上、御連絡申しあげます。

月曜礼拝

月曜礼拝

聖書

マルコによる福音書

第14章
1節 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。
祭司長たちや律法学者たちは、策略をもって

イエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。
2彼らは、「祭の間はいけない。

民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。
3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、

食卓についておられたとき、ひとりの女が、
非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、

それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
4すると、ある人々が憤って互に言った、

「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
5この香油を三百デナリ以上にでも売って、

貧しい人たちに施すことができたのに」。
そして女をきびしくとがめた。

6するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。
なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。

7貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、
したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。

しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
8この女はできる限りの事をしたのだ。

すなわち、わたしのからだに油を注いで、
あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

9よく聞きなさい。全世界のどこででも福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も記念として語られるであろう」。

10ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、
イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。

11彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。
そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。

12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、
弟子たちがイエスに尋ねた、

「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、
どこへ行ってしたらよいでしょうか」。

13そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、
「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。

その人について行きなさい。
14そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、

『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、
と先生が言っておられます』。

15するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、
そこにわたしたちのために用意をしなさい」。

16弟子たちは出かけて市内に行って見ると、
イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。

17夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。
18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、

「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、
わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。

19弟子たちは心配して、ひとりびとり
「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。

20イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、
わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。

21たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。
しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。

その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
22一同が食事をしているとき、

イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、
弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。

23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
24イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

25あなたがたによく言っておく。
神の国で新しく飲むその日までは、

わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
26彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

27そのとき、イエスは弟子たちに言われた、
「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。

『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』
と書いてあるからである。

28しかしわたしは、よみがえってから、
あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。

29するとペテロはイエスに言った、
「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。

30イエスは言われた、「あなたによく言っておく。
きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、

三度わたしを知らないと言うだろう」。
31ペテロは力をこめて言った、

「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、
あなたを知らないなどとは、決して申しません」。

みんなの者もまた、同じようなことを言った。
32さて、一同はゲツセマネという所にきた。

そしてイエスは弟子たちに言われた、
「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。

33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、
恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、

34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。
ここに待っていて、目をさましていなさい」。

35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、
もしできることなら、

この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、
そして言われた、

36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
どうか、この杯をわたしから取りのけてください。

しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
37それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、

ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、
ひと時も目をさましていることができなかったのか。

38誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。
心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

39また離れて行って同じ言葉で祈られた。
40またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。

その目が重くなっていたのである。
そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。

41三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。
もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

42立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
43そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、

十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。
また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、

剣と棒とを持って彼についてきた。
44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、

「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、
まちがいなく引っぱって行け」。

45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46人々はイエスに手をかけてつかまえた。

47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、
剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。

48イエスは彼らにむかって言われた、
「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。

49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、
わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。

50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、

イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、
52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

53それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、
祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。

54ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、
その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた。

55さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、
イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。

56多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである。
57ついに、ある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った、

58「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、
三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。

59しかし、このような証言も互に合わなかった。
60そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「

何も答えないのか。
これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。

61しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。
大祭司は再び聞きただして言った、

「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。
62イエスは言われた、「わたしがそれである。

あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、
天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

63すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、
「どうして、これ以上、証人の必要があろう。

64あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。
すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。

65そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、
「言いあててみよ」と言いはじめた。

また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。
66ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、

67ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、
「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。

68するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。
あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、

庭口の方に出て行った。
69ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、

またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。
70ペテロは再びそれを打ち消した。

しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、
「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。

71しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」

と言い張って、激しく誓いはじめた。
72するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。

ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」
と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

終わり

ユダについて想像ですが、彼はユダヤ最大の都会エルサレムに来ていました。
自分の理想を実現することができる町と思ったのでしょうか。

その町で、ガリラヤに行かれる前のイエスさまにお会いしたのでしょう。
ガリラヤ人でない彼が、イエスさまの弟子に加わった状況はこんなところかと思われます。

イエスさまの弟子にとは、彼の場合、
何もかも捨ててイエスさまに従ったペテロやヨハネのようにではなく、

自分の目的実現のためについていくといった思惑が感じられ、
イエスさまの中に、反乱軍指導者の力を見たからついていったと見る人たちもいるようです。

彼自身にもよくは分からなかったでしょうが、
才能も自信もある都会人の価値観が見え隠れしているような気がします。

弟子団の中でその能力を発揮しているのは彼だけで、
他の者たちは、能力があってもそれが用いられた形跡はないのです。

彼だけが弟子団の「財布を預かる」というポジションを持っていました。

彼はイエスさまの弟子になりました。
牧者であり主ご自身であったイエスさまのそばで、

イエスさまの声を聞きながら充実していた筈でした。
ところが、逆に彼の失望が深くなっているようです。

彼は、自分がイエスさまに求めたものは、
今ここにあるものとは違うと感じ始めているようで、

祭司長、長老など、イスラエル指導者たちへの
権力羨望(せんぼう,うらやむこと)があったのでしょうか。

彼はゼカリヤ書に言われている羊のように、
飼い主の声に逆らい、心を頑(かたくな)なにしていくのです。

彼の顔が、心病む人のように、
次第に鉄面皮(てつめんぴ,恥知らずで、厚かましいこと)になっていきます。

「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ります」
「先生。まさか私のことではないでしょう」(26:25)

ゲッセマネの園で、キスをして、
これがイエスさまだとユダヤ人たちに知らせたなど、

その最たるものではありませんか。
ユダを「誠実で優秀な求道者」と感じるような印象で言って来ましたが、

実はマタイは、そのような彼を暗示させる記事をすべて削除し、
ただ彼の裏切りだけに的を絞っています。

今朝選んだテキストの26:14-16はマタイだけのもので、
他にも彼は幾つか彼だけの記事を記録していますが、

恐らくマタイは、ユダに弁解の余地はないと、
彼の気持ちをここで現したかったのでしょう。

出来心からではなく、練りに練った計画の裏切りであり、
その責任は彼自身にあると聞こえてきます。

ユダはついに主を裏切り、もともと主のものであった
銀貨30枚を自分のものとして、自分の牧者である方

抹殺の発端となってしまいました。
それは彼が、イエスさまに従いながら、

その実、自分自身を捨てることがなかったことに
起因していると感じられます。

イエスさまの弟子になるのに、
何かの能力が必要ということはありません。

むしろ、パウロのように、
「キリストのゆえにすべてのものを
糞土のように思っている」(ピリピ 3:8)と、

イエスさまに従い尽くす信仰を求めていきたいと思わされます。
彼は「12使徒のひとりであるイスカリオテのユダ」と言われました。

そんな彼が、イエスさまを裏切った者というレッテルを貼られています。
イエスさまが彼を赦されたかどうかは分かりません。

しかし、裏切り者ユダは、
私たち自身でもあると覚えなければならないでしょう。

そして、ペテロが言うように
「堅く信仰に立ってこの悪魔に立ち向かう」(Ⅰペテロ 5:9)

者でありたいと願います。

朝早く、徹夜で終末を弟子たちに教えられたイエスさまが、
オリ-ブ山を降りて来られます。

「2日たつと過越の祭りになります。
人の子は十字架につけられるために引き渡されます」(26:2)

これはイエスさま最後の一週間、水曜日のことですが、
この日のイエスさまの記事はこれだけです。

ところが、イエスさまが十字架の予告をされている同じ時に、
大祭司カヤパの家に祭司長や長老たちが集まり、

イエスさまを捕らえ殺す相談をしています。
そんな相談は多分、何度もしていたのでしょうが、

このときはユダヤの最高議会サンヒドリンの議員たちが
相談をまとめたということで、

恐らく彼らの最終決定だったのでしょう。
そこにユダがやって来ます。

「『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか』
すると彼らは銀貨30枚を彼に支払った。

そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた」(26:15-16)
銀貨30枚は牛一頭、奴隷一人の値段と言われます。

現在の日本円で約70~80万円くらいの見当でしょうか。
ベタニヤのマリヤがイエスさまに注いだ香油が

300デナリで、銀貨約75枚(約150万円)になります。
マリヤのこの行為に、ユダは本当に腹が立ったのでしょう。

「この香油を売って貧しい人に施すことができたのに」
しかし彼は、その半分にも満たない銀貨をもって

イエスさまを裏切ります。
自分の価値を認めて貰えない悲哀を感じ……、

もっと大きなことができると、
自分の能力を信じて疑わない部分があったのでしょうか。

亜麻布,亜麻(あまぬの,あま)(Linenリネン)

亜麻から作った布または糸。(出 25:4; 裁 15:14)

ヘブライ人の間では,ほとんどの衣服は羊毛か亜麻布で作られました。
(レビ 13:47; 箴 31:13,22; ホセ 2:5,9)

祭司でないイスラエル人の衣服にそれら二つの素材を織り交ぜることは
律法によって禁じられていました。(申 22:11)

亜麻布で作られた他の物としては帯や(エレ 13:1)
帆(エゼ 27:7)がありました。

イスラエル人は亜麻布を自分たちで製造していたようですが,
エジプトからも幾らか輸入していました。―箴 7:16。

聖書が「上等の亜麻布」や「上等の織物」に言及していることからも分かるように,
亜麻布にはいろいろな質のものがありました。(エゼ 16:10; 27:16)

富裕な人,王,政府の高官などは質の高い亜麻布を着用しました。
(創 41:42; 代一 15:27; エス 8:15; ルカ 16:19)

アリマタヤの富んだ人であったヨセフは,
イエスの遺体を清い上等の亜麻布で包みました。―マタ 27:57‐59。

イスラエルの女性が紡いだ上等の亜麻糸は,
幕屋の10枚の天幕布,聖所と至聖所を分ける垂れ幕,

幕屋の入口のための仕切り幕,中庭の掛け布,
それに中庭の門の仕切り幕を作るのに用いられました。(
出 35:25; 36:8,35,37; 38:16,18)

上等のより亜麻は,大祭司の腰帯,エフォド,
および胸掛けに用いられました。(出 39:2,3,5,8)

同様に,他の祭司たちのために
上等の亜麻布の長い衣が作られました。(出 39:27‐29)

聖なる所に用いられた垂れ幕や衣類には,
亜麻布が下地として使われ,

染めた羊毛と金の刺しゅうがその上に
飾りのために施されたようです。―出 35:35; 38:23。

比喩的な用法 大いなるバビロンは
上等の亜麻布と紫と緋で装っている様で描かれており,

それはぜいたくな生活を表わしています。(啓 18:16)
しかしキリストの花嫁の場合,その衣服の上等の亜麻布は

「聖なる者たちの義の行為」を表わすものであると
明白に述べられています。同様に,

天の軍勢も白くて清い上等の亜麻布を
まとっている者たちとして示されており,

それは彼らが義の戦争を行なっていることを示唆しています。

日曜礼拝  「イエス様の12弟子でさえ、」

イエス様の12弟子でさえ、ユダは、「銀貨30枚」に、他の者は、「だれがいちばん偉い」と物欲に熱心であった。

イエスが十字架につけられに行くことを告げた時でさえ、彼らの関心は、だれが最高の地位につくかにあった。

聖書

ルカによる福音書

第22章

1節 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。

2祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。
民衆を恐れていたからである。

4すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、
どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。

5彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。

6ユダはそれを承諾した。
そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。

7さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、

8イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。

9彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。

10イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。
その人がはいる家までついて行って、

11その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。

12すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。

13弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。

14時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。

15イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。

16あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

17そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。

18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、

「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。

わたしを記念するため、このように行いなさい」。
20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

21しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

22人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

23弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

互に論じはじめた。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^

24それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
25そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

たちは恩人と呼ばれる。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

26しかし、あなたがたは、そうであってはならない。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

のようになるべきである。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

27食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。
食卓につく人の方ではないか。
しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

28あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。

29それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、
わたしもそれをあなたがたにゆだね、

30わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、
また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

31シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。

32しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

33シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。

34するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。
きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

35そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、
何かこまったことがあったか」。
彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。

36そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。
袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。

37あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、
わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。

38弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。
イエスは言われた、「それでよい」。

39イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。

40いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、

42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

43そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

44イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

45祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、
彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって

46言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。

47イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりで
ユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。

48そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。

49イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、

50そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。

51イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。

52それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、
「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。

53毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。
だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。

54それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。
ペテロは遠くからついて行った。

55人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、
ペテロもその中にすわった。

56すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、
「この人もイエスと一緒にいました」と言った。

57ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。

58しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。
するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。

59約一時間たってから、またほかの者が言い張った、
「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。

60ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。
すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。

61主は振りむいてペテロを見つめられた。
そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」
と言われた主のお言葉を思い出した。

62そして外へ出て、激しく泣いた。

63イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、

64目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。

65そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。

66夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、

67「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。

68また、わたしがたずねても、答えないだろう。 69しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。

70彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。

71すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。

過越祭の起源

聖書の出エジプト記 12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事と、

それに起源を持つとするユダヤ教の行事のことである。

これは、ユダヤ人にとって、秋のティシュリーの月に行われる仮庵の祭 (Sukkoth) などと並ぶ祭。

初日と末日の間の平日は仮庵の祭と同じくホール・ハン=モーエード (Chol hamoed) という。
(ユダヤ教関連用語一覧#ホを参照)

イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、

奴隷として虐げられるようになっていた。

神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、

ファラオがこれを妨害しようとする。

そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。

その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。

神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。

つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。
除酵祭の由来

イスラエルの民が過越祭を守って翌日エジプトを去って紅海を渡るまで経験した苦難が除酵祭の由来になりました。

その頃エジプトのファラオはイスラエルの民を解放してからすぐ心が変わって自ら選り抜きの戦車六百をはじめ、

エジプトの戦車すべてを動員し、イスラエルの民を今一度捕まえようと追撃しました。

ファラオの軍隊が目で見える距離まで近づいて来ると、

イスラエルの民は恐ろしさにとらわれてエホバに請い願いモ-セを恨み始めました。

そのような状況の中で神様はモ-セの杖を通じて紅海を陸地のように引き離して

イスラエルの民が無事に渡れるように導きました。

男(壮丁)の数字だけでも六十万だとしたらその中に属している女と子供はどれだけ多くいたでしょうか。

しかし神様は雲柱と火柱でイスラエルの民とエジプト軍隊の間を引き離して

彼らの追い討ちを引き延ばしてくださいました。

このような状況なので逃げようとする者の心はどれだけはらはらしたでしょうか。

このような状況の中で発生した苦しみが除酵祭の由来になりました(出 14: 1-31)。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Wvn8kxu2EDM&w=640&h=360]

三代王権・真の御父様に帰ろう!より引用

サンクチュアリ教会のブログカテゴリーに自主参加で増えてる!

さすが、サンクチュアリアン、

  • サンクチュアリチャーチ関係ができたから、参加してみよう!!だそうです。陽気だ!!
7位 洋介さん 30 610
8位 オケアヌスさん

統一村から一掃される前に
今のうち、下をクリックしてアドレスを登録しておきましょう。!!

http://philosophy.blogmura.com/worldpeaceandunificationsanctuary/ranking.html
http://philosophy.blogmura.com/uc/img/uc88_31.gif

第三節 イエスを中心とする復帰摂理

第三節 イエスを中心とする復帰摂理

(一)第一次世界的カナン復帰路程
(二)第二次世界的カナン復帰路程
(三)第三次世界的カナン復帰路程
(四)イエスの路程が見せてくれた教訓

天使を主管すべきであったアダム(コリント・六・3)が、堕落することによって逆にサタンの主管を受け、地獄をつくったのであるから、これを蕩減復帰するために、後のアダムとして来られるイエスは、あくまでも自分自身でサタンを屈伏させて、天国を復帰しなければならないのである。しかし、既に第一節において詳しく述べたように、神の前にも屈伏しなかったサタンが、イエスと信徒たちに従順に屈伏するはずはないのであるから、神は人間を創造された原理的な責任を負われ、ヤコブとモーセを立てられて、将来イエスがサタンを屈伏することができる表示路程を見せてくださったのであった。
ヤコブはサタンを屈伏させる象徴的路程を歩んだのであり、モーセはサタンを屈伏させる形象的路程を、そして、イエスはその実体的路程を歩まなければならなかったのである。それゆえに、イエスは、モーセがサタンを屈伏していった民族的カナン復帰路程を見本として、サタンを屈伏させることによって、世界的カナン復帰路程を完遂しなければならなかったのである。
申命記一八章18節に神はモーセに対して「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう」と言われたみ言の中で、モーセのような一人の預言者と言われたのは、とりもなおさず、モーセのような路程を歩まなければならないイエスについて話されたのである。そしてヨハネ福音書五章19節を見れば、イエスは、神のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができないと記録されているのであるが、これは、イエスが、神がモーセを立てられて見せてくださった表示路程を、そのまま歩まれるということを言われたのであった。詳細なことは、既にモーセを中心とする復帰摂理において論じたのであるが、モーセを中心とする三次の民族的カナン復帰路程と、イエスを中心とする三次の世界的カナン復帰路程の全体的な輪郭を比較対照しながら、イエスを中心とする復帰路程を論じてみることにしよう。

(一)第一次世界的カナン復帰路程
(1) 信 仰 基 台
第一次世界的カナン復帰路程において、「信仰基台」を復帰しなければならなかった中心人物は、洗礼ヨハネであった。それでは、洗礼ヨハネはいかなる立場から、その使命を完遂しなければならなかったのであろうか。モーセを中心とする民族的カナン復帰路程において、モーセが石板を壊したことと、また磐石(岩)を二度打ったことは、将来イエスが来られるとき、彼を中心とするユダヤ民族が不信に陥るならば、石板と磐石の実体であられるイエスの体を打ち得るという条件を、サタンに許す表示的な行動になったということについては、既にモーセ路程で論及したところである。
それゆえに、イエスがこの条件を避けるには、彼の降臨のための基台をつくっていく選民たちが、将来来られるメシヤの形象体である神殿を中心として、一つにならなければならなかったのである。ところが、イスラエル民族は、常に不信仰の道を歩むようになり、将来来られようとするイエスの前に、サタンが侵入し得る条件を成立させてきたので、このような条件を防いで新しい摂理をするために、預言者エリヤが来て、バアルの預言者とアシラの預言者とを合わせて、八五〇名を滅ぼすなど(列王上一八・19)、サタン分立の役割をして昇天したのであった(列王下二・11)。しかし、エリヤの全体的な使命は、全部が全部は成就できなかったので、この使命を完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ四・5)。このように、エリヤが果たし得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ一・23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった(マタイ一一・14、マタイ一七・13)。
イスラエル民族がエジプトで四〇〇年間、だれ一人導いてくれる預言者もなく、苦役を続けてきたその途上で、彼らを民族的にカナンの地へ引率し、メシヤを迎えさせる人物として、神はモーセを送られるようになった。これと同じように、ユダヤ人たちも、マラキ預言者以後メシヤ降臨準備時代の四〇〇年の間、だれ一人導いてくれる預言者もなく、ペルシャ、ギリシャ、シリヤ、ローマなどの異邦人たちによって苦役を強いられる生活を送る途上において、ついに世界的カナン復帰のために来られるメシヤの前に、彼らを導くことができる人物として、洗礼ヨハネを送られたのであった。
エジプト苦役四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていたモーセが、パロ宮中で忠孝の道を学んだように、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていた洗礼ヨハネは、荒野でいなごと野蜜とを食べながら、メシヤを迎えるために、天に対する忠孝の道を立てたのであった。それゆえに、祭司たちをはじめとして(ヨハネ一・19)、ユダヤ人たちはみな、洗礼ヨハネがメシヤではないかとまで思うようになったのである(ルカ三・15)。洗礼ヨハネは、このようにして「四十日サタン分立基台」を立てたので、第一次世界的カナン復帰のための「信仰基台」をつくることができたのであった。

(2) 実 体 基 台
洗礼ヨハネは、モーセと同じ立場に立てられていたので、ユダヤ民族に対して、父母と子女という二つの立場に立っていたのであった。ところで、彼は父母の立場から、第一次世界的カナン復帰のための「信仰基台」を蕩減復帰したので、同時に彼は、子女の立場から、「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てるに当たっての、アベルの立場をも確立することができたのであった(本章第二節(一)(2))。したがって、洗礼ヨハネは、モーセがパロ宮中において四十年間の蕩減期間を送ったのち、第一次民族的カナン復帰のための「信仰基台」を立てたその立場を、世界的な規模で打ち立て、その土台の上に立つようになったのである。
モーセのとき神は、イスラエル民族に、モーセがエジプト人を打ち殺すのを見せ、彼を信ぜしめることによって「出発のための摂理」をなさろうとした。そのときには、イスラエル民族が、サタン国家であるエジプトを出発し、カナンの地に入らなければならなかったのであるが、洗礼ヨハネを中心とするユダヤ民族の場合には(サタン国家である)ローマ帝国を離れて他の地方に移動してはならず、その政権下にいながら彼らを屈伏させその帝国を神の国として復帰しなければならなかった。そこで神は、洗礼ヨハネを中心とする数々の奇跡を見せてくださることにより、ユダヤ人たちが彼を信ずるように仕向けることによって、「出発のための摂理」を成就しようとなさったのである。
それゆえに、洗礼ヨハネの懐胎に関する天使の驚くべき予告と、また、その父親がこれを信じなかったとき、唖になってしまった奇跡、そして、彼が生まれたときに見せてくださった奇跡などによって「近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、聞く者たちは皆それを心に留めて、『この子は、いったい、どんな者になるだろう』と語り合った。主のみ手が彼と共にあった」(ルカ一・65、66)といわれた聖書のみ言のように、イスラエル民族は、洗礼ヨハネが生まれたときから、彼を神がお送りになった預言者であると認めていたのである。そればかりでなく、荒野でいなごと野蜜とをもって命をつなぎながら、祈りの生活をした彼の輝かしい修道の生活により、祭司たちと(ヨハネ一・19)一般のユダヤ人たちが(ルカ三・15)、彼をメシヤだと誤認するぐらいに彼の信望は高かったのである。
モーセが、パロ宮中四十年の蕩減期間を終えて、エジプト人を殺害したとき、イスラエル民族が彼の愛国心に感動し、彼を信じ彼に従ったならば、彼らは紅海を渡り、荒野を迂回しなくてもよかったし、また石板とか、幕屋とか、契約の箱なども必要なく、ペリシテの近道を通って、まっすぐにカナンの地に入れたはずであった。このように、イエス当時のユダヤ人たちも、神の奇跡をもって信仰の対象者として立ててくださった洗礼ヨハネを信じ、彼に従ったならば、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができたのであった。

(3) 第一次世界的カナン復帰路程の失敗
ユダヤ人たちは、洗礼ヨハネが立てた「信仰基台」の上に、彼をメシヤのように信じ、彼に従う立場にいたので(ヨハネ一・19、ルカ三・15)、彼らは旧約時代を清算して、世界的カナン復帰の新しい路程を出発することができたのである。ところが、既に前編の第四章第二節において詳しく論じたように、洗礼ヨハネは自らイエスをメシヤとして証したのにもかかわらず、彼を疑うようになり(マタイ一一・3)、また、自分がエリヤとして来たのにもかかわらず、それを知らずに否認して(ヨハネ一・21)、ユダヤ人たちがイエスの前に出ていく道をふさいだばかりでなく、彼らがイエスに逆らうような立場にまで押しやったのである。これによって洗礼ヨハネは、「実体基台」を立てるに当たってのアベルの位置を離れたために、ユダヤ人たちは、「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てることができなかったのである。このようにして、ユダヤ人たちが「実体基台」を立てることができなくなった結果、「メシヤのための基台」を造成することができなくなったために、第一次世界的カナン復帰路程は失敗に終わることとなり、これもモーセのときと同じく、二次から三次まで延長されたのである。

(二)第二次世界的カナン復帰路程
(1) 信 仰 基 台
① イエスが洗礼ヨハネの使命を代理する
洗礼ヨハネは、完成したアダムとして来られたイエスに対しては、復帰されたアダム型の人物であった。ゆえに洗礼ヨハネは、そのときまでの摂理歴史上において、「信仰基台」と「実体基台」とを復帰するために来たすべての中心人物たちが完遂できなかった使命を、完全に成就して、「メシヤのための基台」をつくらなければならなかったのである。そして、この基台の上で彼を信じ、彼に従うユダヤ民族を導いて、全体的な摂理の基台と共に、イエスに引き渡したのち、信仰と忠誠をもって彼に従い彼に侍るべきであった。
洗礼ヨハネは、自分でも知らずに行ったことではあったが、ヨルダン河でイエスにバプテスマを行ったということは(マタイ三・16)、自分が神のみ旨のために今まで築きあげてきたすべてのものを、イエスの前に引き渡すという一種の儀式だったのである。
ところがその後、洗礼ヨハネは次第にイエスを疑うようになり、イエスに逆らうようになったため、洗礼ヨハネをメシヤのように信じて従ってきた(ルカ三・15)ユダヤ人たちは、自然にイエスを信じないという立場に陥らざるを得なかったのであった(前編第四章第二節)。したがって、洗礼ヨハネが第一次世界的カナン復帰路程のために立てた「信仰基台」はサタンの侵入を受けてしまった。それゆえ、やむを得ず、イエス自身が洗礼ヨハネの使命を代理して、「信仰基台」を蕩減復帰することにより、第二次世界的カナン復帰路程を出発するほかはなかったのである。イエスが荒野で四十日間断食をされながら、サタンを分立されたのは、とりもなおさず、洗礼ヨハネの代理の立場で、「信仰基台」を蕩減復帰されるためであった。
イエスは神のひとり子であり、栄光の主として来られたのであるから、原則的にいえば、苦難の道を歩まれなくてもよいはずなのである(コリント・二・8)。ところが、そのイエスの道を直くするための使命を担って生まれてきた洗礼ヨハネ(ヨハネ一・23、ルカ一・76)が、その使命を完遂できなかったために、洗礼ヨハネが受けるべきであったはずの苦難を、イエス自身が代わって受けなければならなかったのであった。このようにイエスは、メシヤであられるにもかかわらず、洗礼ヨハネの代理に復帰摂理路程を出発されたという事情のために、ペテロに向かい、自分がメシヤであるという事実をユダヤ人たちに証してはならぬと言われたのである(マタイ一六・20)。

② イエスの荒野四十日の断食祈祷と三大試練
我々はまず、イエスの四十日断食祈祷と三大試練に対する、その遠因と近因について知っておく必要がある。民族的カナン復帰路程において、磐石(岩)の前に立っていたモーセが不信に陥り、それを二度打ったために、イエスを象徴するその磐石(岩)(コリント・一〇・4)は、サタンの侵入を受けてしまったのであった。それは、後日、メシヤとして来られ、モーセ路程を見本として歩まなければならないイエスの路程においても、イエスの道を直くするために来るはずの洗礼ヨハネが不信に陥るようになれば、磐石であられるイエスの前にサタンが侵入し得るということの、表示的な行動となってしまったのである。したがって、この行動はメシヤより先に来るはずの洗礼ヨハネを中心とする「信仰基台」にも、サタンが侵入し得るということの、表示的な行動ともなったのであった。それゆえに、磐石を二度打ったモーセの行動は、とりもなおさず、洗礼ヨハネが不信に陥るようになったとき、その「信仰基台」を復帰するために、イエス御自身が洗礼ヨハネの代理の立場で荒野に出ていかれ、四十日断食と三大試練を受けなければならなくなった遠因となったのである。
事実においても、洗礼ヨハネが不信に陥ったために(前編第四章第二節(三))、彼が立てた「信仰基台」にサタンが侵入したのであるが、これが近因となって、イエスは自ら洗礼ヨハネの立場で、「四十日サタン分立基台」を立てることによって「信仰基台」を蕩減復帰するために、荒野における四十日断食と三大試練を受けなければならなかったのである。
それでは、サタンが三大試練をするようになった目的は、どこにあったのだろうか。マタイ福音書四章1節から10節を見ると、サタンはイエスに石を示しながら、それをパンに変えてみよと言ったとあり、また、彼を宮の頂上に立たせてそこから飛びおりてみよと言い、さらに最後には、彼を非常に高い山に連れていき、もしひれ伏して自分を拝むならば、この世のすべてのものをあげようと言うなど、三つの問題をもってイエスを試練したのであった。その目的はどこにあったのであろうか。
初めに神は人間を創造し給い、その個性の完成、子女の繁殖、および被造世界に対する主管など、三つの祝福をされた(創一・28)。それゆえに、人間がこれを完成することが、すなわち、神の創造目的なのである。ところが、サタンが人間を堕落させて、この三つの祝福を成就することができなかったために、神の創造目的は達成されなかったのである。それに対してイエスは神が約束されたこの三つの祝福を復帰することによって、神の創造目的を成就するために来られたのであるから、サタンは祝福復帰への道をふさぐため、その三つの試練をもって、創造目的が達成できないように妨げようとしたのであった。
それでは、イエスはこの三大試練をいかに受け、またいかに勝利されたのであろうか。我々はここにおいて、まずサタンが、いかにしてイエスを試練する主体として立ち得るようになったか、ということについて知らなければならない。モーセを中心とする民族的カナン復帰路程において、イスラエルの不信とモーセの失敗により、サタンがイエスと聖霊とを象徴する二つの石板と磐石とを取るようになったため、サタンは、モーセを中心とするイスラエルに対して主体的な立場に立つようになったという事実を、我々は既に明らかにしたはずである。ところが、世界的カナン復帰路程に至り、サタンを分立してメシヤの行くべき道を直くする使命者として来た洗礼ヨハネ(ヨハネ一・23)が、その責任を完遂できなくなり、モーセのときと同じく、イスラエル民族が再び不信仰と不従順に陥るようになったために、神が既にモーセ路程で予示されたように、サタンは、イエスを試練する主体的な立場に立つようになったのであった。それではここで、その試練のいきさつを、更に詳しく追ってみることにしよう。
イエスが荒野で四十日の断食を終えられたとき、サタンがその前に現れて、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・3)と試練してきた。ここにはいかなる事情があるのだろうか。まずモーセが荒野で「四十日サタン分立基台」の上におかれていた石板を壊し、磐石を二度打ったという行動、および、洗礼ヨハネの不信の結果、その石をサタンが所有するようになったので、これを再び取り戻すため、イエスは荒野に出ていかれ、四十日間断食してサタンを分立しなければならなかった。サタンは、イエスがこのように石を取り戻すために、荒野に出てこられたということをよく知っていたのである。したがって、その昔、民族的なカナン復帰のための荒野路程において、イスラエルの祖先たちが飢餓に打ち勝つことができず、不信に陥って、石をサタンがもつようになったのと同じく、今、世界的カナン復帰のための荒野路程におかれているイエスも、彼らと同様、飢餓の中にいるのであるから、次第に不信に陥って、その石を取り戻そうとする代わりに、それをパンに変えて飢えをしのぐようになれば、その石はサタンが永遠に所有しつづけることができるという意味だったのである。
この試練に対するイエスの答えは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ四・4)というみ言であった。元来、人間は、二種類の栄養素によって生きるように創造された。すなわち、自然界より摂取する栄養素によって肉身を生かし、神の口から出るみ言によって霊人体を生かすようになっているのである。ところが堕落人間は、神のみ言を直接受けられなくなってしまったために、ヨハネ福音書一章14節に記録されているように、神のみ言が肉身となって地上に来られたイエスのみ言によって、その霊人体が生きていくようになっているのである。ゆえに、ヨハネ福音書六章48節を見ると、イエスは「わたしは命のパンである」と言われ、それに続いて、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ六・53)とも言われたのであった。それゆえに、人間がパンを食べてその肉身が生きているとしても、それだけで完全に生きているとはいえない。その上に、神の口から出るみ言が肉身と化して、あらゆる人間の命の糧となるために来られたキリストによって生きない限りは、完全な人間となることはできないのである。
しかるに、モーセが石板の根である磐石を二度打ったことによって、その石は、サタンの所有となったのである。このようにサタンのものとなったその石は、まさしく、モーセが失ったその磐石(岩)であり、また、その石板でもあったために、その石は結局、サタンの試練を受けているイエス自身を象徴するものであった。これは、黙示録二章17節に、石をキリストとして象徴し、またコリント・一〇章4節に「岩はキリストにほかならない」と記録されているのを見ても、明らかに理解することができるのである。それゆえに、サタンの最初の試練に応じたイエスの答えは、要するに、私が今いくらひどい飢えの中におかれているとしても、肉身を生かすパンが問題ではなく、イエス自身がサタンから試練を受けている立場を勝利して、すべての人類の霊人体を生かすことができる、神のみ言の糧とならなければならないという意味であった。したがって、この試練は、イエスが洗礼ヨハネの立場でもって試練を受けて勝利することにより、個性を完成したメシヤの立場を取り戻す試練であった。このような原理的立場からみ旨に対しておられたイエスの言行に、サタンは敗北したのであった。そして、イエスがこの最初の試練に勝利して、個性を復帰することができる条件を立てられることによって、神の第一祝福の復帰の基台をつくられたのである。
つぎにサタンは、イエスを宮の頂上に立たせて、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」(マタイ四・6)と言った。ところでヨハネ福音書二章19節から21節を見ると、イエスは、御自身を神殿と言われたのであり、また、コリント・三章16節には、信徒たちを神の宮と、そしてまた、コリント・一二章27節では、信徒たちをキリストの肢体であると言っているのである。それらを見ると、イエスは本神殿であり、信徒たちはその分神殿であるという事実を、我々は知ることができる。このように、イエスは神殿の主人公として来られたのであるから、サタンもその位置を認めなければならなかったので、イエスを宮の頂上に立たせたのであった。そして、そこから飛びおりるようにと言ったのは、主人公の位置から下りて堕落人間の立場に戻るならば、自分がイエスの代わりに神殿主管者の位置を占領するという意味だったのである。
これに対してイエスは、「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ四・7)と答えられた。元来、天使は、創造本然の人間の主管を受けるように創造されたために、堕落した天使は、当然イエスの主管を受けなければならないのである。それにもかかわらず、天使が、イエスの代わりに神殿主管者の立場に立とうとすることは、非原理的な行動であるということはいうまでもない。それゆえに、このような非原理的な行動をもって、原理的な摂理をなさる神の体であられるイエスを試練することによって、神を試練する立場に立つなどということはあり得べからざることなのである。そればかりでなく、イエスは、既に、第一次の試練に勝利し、個性を復帰した実体神殿として、神殿の主人公の立場を確立されたのであったから、サタンの試練を受けるべき何らの条件もないので、今はイエス自身を試練しないで退けという意味であった。このようにして、第二の試練に勝利することによって、本神殿であり、新郎であり、また人類の真の親として来られたイエスは、すべての信徒たちを、分神殿と新婦、そして子女の立場に、復帰することができる条件を立てて、神の第二祝福の復帰の基台を造成されたのであった。
つぎにサタンは、イエスを非常に高い山に連れていき、世のすべての国々とその栄華とを見せながら「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ四・9)と試練した。元を探れば、アダムは堕落することによって、万物世界に対する主人公としての資格を失い、サタンの主管を受けるようになったからこそ、サタンがアダムの代わりに、万物世界の主管者として立つようになったのである(ロマ八・20)。ところが、完成したアダムの位置で来られたイエスは、コリント・一五章27節に、万物をキリストの足もとに従わせたと記録されているみ言のように、被造世界の主管者であったのである。したがって、サタンもこのような原理を知っていたために、イエスを山の上に連れていき、万物の主人公の立場に立たせてから、初めにアダムがサタンに屈伏したように、第二のアダムであるイエスも、サタンに屈伏せよという試練であった。
これに対してイエスは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイ四・10)と答えられた。天使は、もとより仕える霊(ヘブル一・14)であって、自己を創造された神を崇拝し、神に仕えるようになっていたのである。したがって、堕落した天使であるサタンも、彼を拝し彼に仕えるのが原理であるために、サタンは当然、創造主、神の体として現れたイエスにも屈伏して、彼を拝し彼に仕えるのが原理であるとイエスは答えられたのであった。しかもイエスは、既に二度の試練に勝利し、神の第一、第二の祝福を復帰し得る基台を造成しておられたので、その基台の上に神の第三祝福を復帰して、万物世界を主管するのが当然であったから、既に勝利の基台の上に立っている万物世界に対しては、それ以上試練を受けるべき余地がないという意味をもって原理的に答えられたのである。このように、イエスは第三の試練にも勝利され、被造世界に対する主管性を復帰し得る条件を立てることによって、神の第三祝福に対する復帰の基台を造成されたのであった。

③ 四十日断食と三大試練とをもってサタンを分立した結果
創造原理によれば、人間は正分合の三段階の過程を経て、四位基台をつくって初めて、神の創造目的を成就するようになっているのである。ところが、人間はその四位基台をつくっていく過程において、サタンの侵入を受け、創造目的を成就することができなかったために、神は、今までの復帰摂理路程を、これまた、三段階まで延長しながら、「四十日サタン分立基台」をつくることによって、失ったすべてのものを蕩減復帰しようとされたのである。ところで、イエスはメシヤであられると同時に、洗礼ヨハネの立場で三段階の試練に勝利され、「四十日サタン分立基台」を立てられたので、これによってイエスは、神の復帰摂理の歴史路程を通して、三段階に摂理を延長しながら、「四十日サタン分立基台」によって奪い返そうとした、次のようなすべての条件を、一時に蕩減復帰することができたのであった。すなわち、第一に、イエスは洗礼ヨハネの立場で、第二次世界的カナン復帰のための「信仰基台」を蕩減復帰されたので、そのときまでの摂理路程において、「信仰基台」をつくるために立てようとされた、すべてのものを蕩減復帰することができたのである。すなわち、カインとアベルの献祭、ノアの箱舟、アブラハムの献祭、モーセの幕屋、ソロモンの神殿などを蕩減復帰されたのであった。それだけでなく、イエスは、アダム以後四〇〇〇年間の縦的な歴史路程を通じて「信仰基台」を復帰するに当たって、その中心人物たちの失敗によって失うに至ったすべての「四十日サタン分立基台」を、横的に一時に蕩減復帰することができたのである。すなわち、ノアの審判四十日、モーセの三次の四十年期間と二次の四十日断食、偵察四十日、イスラエルの荒野路程四十年、そして、ノアからアブラハムまでの四〇〇年、エジプト苦役四〇〇年などをすべて蕩減復帰されたのであった。
第二にイエスは、洗礼ヨハネの立場からメシヤの立場に立つための「信仰基台」を造成したので、神の三大祝福を成就して、四位基台を蕩減復帰することができる条件を立てられたのである。したがって、イエスは献祭に成功した実体であられると同時に、また、石板、幕屋、契約の箱、磐石、神殿の実体としても、立つことができるようになったのであった。

(2) 実 体 基 台
イエスは、人類の真の親として来られ、洗礼ヨハネの立場で「四十日サタン分立基台」を蕩減復帰されたので、父母の立場に立って「信仰基台」を復帰すると同時に、子女の立場でもって「堕落性を脱ぐための世界的蕩減条件」を立てるに当たってのアベルの位置をも確立されたのであった。したがって、イエスはモーセがミデヤンの荒野で四十年間の蕩減期間を送ることによって、第二次民族的カナン復帰のための「信仰基台」を造成した立場を、世界的に蕩減復帰した立場に立つようになったのである。
モーセを中心とする第二次民族的カナン復帰路程においては、三大奇跡と十災禍とによってその「出発のための摂理」をされた。ところがその後、第三次民族的カナン復帰路程においては、イスラエル民族の不信によってその摂理は無為に帰してしまったので、エジプトにおける三大奇跡と十災禍とを蕩減復帰するために、「幕屋のための基台」の上で、石板と幕屋と契約の箱の三大恩賜と十戒を立てることにより、「出発のための摂理」をされたということは、既に、モーセ路程で明らかにしたはずである。しかるにイエスは、石板と幕屋と契約の箱との三大恩賜と十戒の実体であられるから、第二次世界的カナン復帰路程においては、イエス自身がみ言と奇跡とをもってその「出発のための摂理」をされたのであった。したがって、カインの立場におかれていたユダヤ民族が、この「出発のための摂理」によって洗礼ヨハネの使命を担い、アベルの立場に立っていたイエスを信じ、彼に仕え、彼に従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を復帰するようになるので「メシヤのための基台」を造成することができるようになっていたのである。もしこのようになったならば、イエスは、この基台の上で、洗礼ヨハネの立場からメシヤとしての立場に上がるようになり、すべての人類は、彼に接がれて(ロマ一一・17)、重生し、原罪を脱いで神と心情的に一体となることによって、創造本性を復帰し、地上天国をつくることができたはずであったのである。

(3) 第二次世界的カナン復帰路程の失敗
洗礼ヨハネの不信によって、第一次世界的カナン復帰摂理が失敗に終わったとき、イエスは、洗礼ヨハネの使命を代理して、自ら荒野四十日の苦難を受けられて、第二次世界的カナン復帰のための「信仰基台」を蕩減復帰されたのである。ところで、既に述べたように、三大試練においてイエスに敗北したサタンは、一時イエスを離れたのであった(ルカ四・13)。サタンが一時イエスを離れたというのは、永遠に離れてしまったということを意味するのではなく、逆に、再びイエスの前に現れることができるということを暗示しているのである。果たして、サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。
このようにユダヤ民族の不信によって、第二次世界的カナン復帰路程のための「実体基台」はつくり得なくなり、それに伴ってこの摂理のための「メシヤのための基台」もまた造成することができなくなったために、第二次世界的カナン復帰路程は、これまた失敗に終わってしまったのである。

(三)第三次世界的カナン復帰路程
(1) イエスを中心とする霊的カナン復帰路程
第三次世界的カナン復帰路程に関する問題を論ずるに当たって、まず知っておかなければならないことは、これが第三次民族的カナン復帰路程とどのように異なっているかということである。既に、前もって詳しく論及したように、第三次民族的カナン復帰路程におけるイスラエル民族の信仰の対象は、メシヤの象徴体である幕屋であった。それゆえに、イスラエル民族がみな不信に陥ったときにも、この幕屋だけは、モーセが断食四十日期間をもって立てた「幕屋のための信仰基台」の上に立っていたのであり、モーセまでが不信に陥ってしまったときも、それは、モーセが立てた「信仰基台」をもとに、ヨシュアがモーセの使命を代理して偵察四十日のサタン分立期間を通じて造成した「幕屋のための基台」の上に立って、終始一貫してみ旨を信奉してきたヨシュアを中心として、そのまま立ちつづけてきたのである。ところが、世界的カナン復帰路程におけるユダヤ民族の信仰の対象は、幕屋の実体として来られたイエスであったので、その弟子たちまでが不信に陥ってしまうと、もうその信仰を挽回する余地はなく、イエスが、「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ三・14)と言われたみ言のとおり、その肉身は十字架につけられ、死の道を歩まなければならなくなったのである。このように、ユダヤ民族は、霊肉を併せた信仰の対象を失った結果、第三次世界的カナン復帰路程は、第三次民族的カナン復帰路程と同じく、直接、実体の路程としては出発することができず、したがって、第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが復活されたイエスを、再び信仰の対象として立てることをもって、まず、霊的路程として出発するようになったのである。イエスが「この神殿(イエス)をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ二・19)と言われた理由は、ここにあったのである。そうして二〇〇〇年間信仰を続けているうちに、あたかもヨシュアがモーセの使命を継承して、第三次民族的カナン復帰を完成したように、イエスは、再臨されることによって、初臨のときの使命を継承され、第三次世界的カナン復帰路程を、霊肉併せて完成されるようになるのである。我々は、このような復帰摂理路程を見ても、イエスが、初臨のときと同じく、肉体をもって再臨されなければ、初臨のときに成就なさろうとされた復帰摂理の目的を受け継いで、完遂することができないということが分かってくるのである。

① 霊的な信仰基台
ユダヤ民族がイエスに逆らうことにより、第二次世界的カナン復帰路程は失敗に終わったので、イエスが洗礼ヨハネの立場で四十日の断食をもって立てられた「信仰基台」は、サタンに引き渡さなければならなくなってしまったのである。それゆえに、イエスが十字架によってその肉身をサタンに引き渡したのち、霊的洗礼ヨハネの使命者としての立場から、四十日復活期間をもってサタン分立の霊的基台を立てることにより、第三次世界的カナン復帰の霊的路程のための、霊的な「信仰基台」を復帰されたのである。イエスが十字架で亡くなられたのち、四十日の復活期間を立てられるようになった理由はここにあったということを知る人は、今日に至るまで一人もいなかったのである。それではイエスは、霊的な「信仰基台」を、どのようにして立てられたのであろうか。
イエスがメシヤとして現れるときまで、神はユダヤの選民たちと共におられた。しかし彼らが、メシヤとして現れたイエスに逆らいはじめた瞬間から、神は彼ら選民たちを、サタンに引き渡さざるを得なくなったのである。それゆえ、神はイスラエルの民から排斥されたひとり子イエスと共に、選民を捨て、それから顔を背けざるを得なかったのである。しかし、神がメシヤを送られたその目的は、選民をはじめとして全人類を救おうというところにあったので、神は、イエスをサタンに引き渡してでも、全人類を救おうとされたのである。また、サタンは、自分の側に立つようになった選民をはじめとする全人類を、たとえ、みな神に引き渡すようになったとしても、メシヤであるイエスだけは殺そうとしたのである。その理由は、神の四〇〇〇年復帰摂理の第一目的が、メシヤ一人を立てようとするところにあったので、サタンはそのメシヤを殺すことによって、神の全摂理の目的を破綻に導くことができると考えたからである。こうなると、神は、イエスに反対してサタンの側に行ってしまった、ユダヤ民族をはじめとする全人類を救うためには、その蕩減条件としてイエスをサタンに引き渡さざるを得なかったのである。
サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が四〇〇〇年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのである。ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。そこで、サタンがその最大の実権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ一一・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。
しかし、我々が聖書を通してよく知っているように、復活されたイエスは、十字架にかけられる以前、その弟子たちと共に生活しておられたイエスと全く同じイエスではなかったのである。彼は、既に、時間と空間とを超越したところにおられたので、肉眼をもっては見ることのできない方であった。彼は、弟子たちが戸を締めきっていた部屋の中に、突然現れたかと思うと(ヨハネ二〇・19)、エマオという村へ行く二人の弟子の前に突然現れて、長い間同行された。しかし彼らは、近づいてこられたイエスと一緒に歩きながらも、彼がだれであるかを知らなかったのであり(ルカ二四・15、16)、このように現れたイエスはまた、忽然としてどこかに去ってしまわれたのである。イエスは、すべての人類を救われるために、その肉身を供え物として十字架に引き渡されたのち、このように復活四十日のサタン分立期間をもって、霊的な「信仰基台」を立てられることにより、万民の罪を贖罪し得る道を開拓されたのである。

② 霊的な実体基台
イエスは、霊的な洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的な復活「四十日サタン分立基台」を造成なさることにより、霊的な真の父母の立場でもって霊的な「信仰基台」を復帰すると同時に、また、霊的な子女の立場でもって「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てるための、霊的なアベルの位置をも確立されたのである。そのようにして、イエスは、モーセがイスラエル民族を導いて荒野流浪の四十年蕩減期間を送ることにより、第三次民族的カナン復帰のための「信仰基台」を造成したように、第三次世界的カナン復帰のための、霊的な「信仰基台」を造成することができたのである。
モーセのときには、「幕屋のための基台」を立てることによって「出発のための摂理」をされた。しかし、復活されたイエスは、ガリラヤに四散していた弟子たちを呼び集められて、自身が石板と幕屋と契約の箱との霊的な実体となられ、弟子たちに一切の奇跡の権威を授けられることによって(マタイニ八・16~18)、「出発のための摂理」をされたのである。
ここにおいて、カインの立場に立っていた信徒たちは、この「出発のための摂理」により、霊的な洗礼ヨハネ使命者として、霊的なアベルの立場におられる、復活されたイエスを信じ、彼に仕え、彼に従って、「堕落性を脱ぐための霊的な蕩減条件」を立てることにより、「霊的な実体基台」を復帰することができたのである。

③ メシヤのための霊的な基台
イエスが十字架で亡くなられたのち、取り残された十一人の弟子たちはみな力を失って、四方に散らばってしまっていた。ところが、イエスは復活されるとまた、彼らを再びひとところに集められ、霊的カナン復帰の新しい摂理を始められたのである。弟子たちは、イスカリオテのユダの代わりにマッテヤを選んで、十二弟子の数を整え、復活されたイエスを命を懸けて信奉することにより、「霊的な実体基台」を造成し、それによって「メシヤのための霊的な基台」を復帰した。そこでイエスは、この基台の上で、霊的な洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的なメシヤの立場を確立し、聖霊を復帰することによって、霊的な真の父母となり、重生の摂理をされるようになったのである。すなわち、使徒行伝二章1節から4節にかけて記録されているように、五旬節に聖霊が降臨されてのち、復活されたイエスは霊的な真の父として、霊的な真の母であられる聖霊と一つになって摂理されることにより、信徒たちを霊的に接がしめて、霊的に重生せしめる摂理をされて、霊的救いの摂理だけを成就するようになられたのである(前編第四章第一節(四))。したがって、イエスが復活した圏内では、サタンの霊的讒訴条件が清算されているので、それは霊的面におけるサタンの不可侵圏となっているのである。
堕落人間は、キリストを信ずることによって、彼と一体となるとしても、キリスト自身がそうであったと同様に、その肉身はサタンの侵入した立場におかれているので、肉的救いは依然として全うされずに、そのまま残るようになったのである。しかしながら、我々が復活したイエスを信ずれば、彼と共に霊的にはサタンの不可侵圏内に入るようになるから、サタンの霊的讒訴条件を免れ、霊的救いのみが成就されるようになるのである。

④ 霊的カナン復帰
キリスト教信徒たちは「メシヤのための霊的基台」の上で霊的メシヤとして立たせられたイエスを信じ侍ることによって、霊的カナン復帰だけを完成するようになった。それゆえに、霊的カナン復帰の恵沢圏内にいる信徒たちの肉身は、ちょうど十字架によってサタンの侵入を受けたイエスの肉身と同じ立場に立つようになるので、(肉身の面から見れば)イエスが来られる前の状態と異なるところがなく、サタンの侵入を受けることにより、原罪は依然として元のままに残っているので(ロマ七・ 25)、信徒たちもまた、キリスト再臨のための、サタン再分立の路程を歩まなければならなくなったのである(前編第四章第一節(四))。
モーセを中心として摂理された、民族的カナン復帰路程における幕屋理想は、今や復活されたイエスの霊的実体神殿を中心として、世界的に形成されるようになった。その至聖所と聖所とは、それらが象徴しているところのイエスと聖霊、あるいは、イエスの霊人体と肉身が霊的実体というかたちでその理想を成就したのであり、贖罪所の理想は、イエスと聖霊との働き(役事)によって成就され、そこに神が現れて語られるようになったのである。それゆえに、神のみ言が語られるその贖罪所においては人間始祖が堕落したのち、その前をふさいでいたケルビムを左右に分かち、契約の箱の中に入っている生命の木であられるイエスを迎えて、神が下さるマナを食べ、芽を出したアロンの杖でもってそのしるしを見せてくださった神の権威を現すようになるのである(ヘブル九・4、5)。このようにイエスの十字架とその再臨は、モーセの路程を通じてみても、決して、それが既に決まった摂理ではなかったということが分かるのである。

(2) 再臨主を中心とする実体的カナン復帰路程
第三次世界的カナン復帰路程が、第三次民族的カナン復帰路程と同じく、実体路程をもって出発することができず、霊的路程として出発するようになった理由については、既に前節で述べたとおりである。「メシヤのための霊的な基台」の上で、霊的メシヤとしておられるイエスを信じ、彼に従うことをもって出発した第三次世界的カナン復帰の霊的摂理は、二〇〇〇年の悠久なる歴史路程を経て、今日、世界的にその霊的版図を広めるようになった。
それゆえ、あたかもモーセの霊的カナン復帰路程を、ヨシュアが代わって実体路程として歩み、民族的カナン復帰を完遂したのと同じく、イエスは、今までの霊的カナン復帰路程を、再臨されてから実体路程として歩まれ、世界的カナン復帰を完遂されることによって、地上天国をつくらなければならないのである。このように再臨主は、初臨のときに実体をもって成就されようとした地上天国を、そのごとくにつくらなければならないので、あくまでも実体の人間として、地上に生まれなければならないのである(後編第六章第二節(二)参照)。
しかし、再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ一七・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。
それゆえに、イエスは初臨のときに、彼のために召命された第一イスラエル選民を捨てられ、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立て、新しい霊的な摂理路程を歩むほかはなかったのと同様に、再臨のときにも、キリスト教信徒たちが不信に陥るならば、彼らを捨てて新しく第三イスラエルを立て、実体的な摂理路程を成就していくほかはない。さらにまた、イエスは再臨のときも初臨のときと同じく、彼の道を直くするために洗礼ヨハネの使命(ヨハネ一・23)を担ってくるはずの先駆者たちが、その使命を全うし得ないときには、再臨主御自身が、再び洗礼ヨハネの立場で、第三次世界的カナン復帰摂理のための「信仰基台」を実体的に造成しなければならないので、苦難の道を歩まれなければならないようになるのである。
しかし、再臨主はいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、初臨のときのように、復帰摂理の目的を完遂できないで、亡くなられるということはない。その理由は、神が人類の真の父母を立てることによって(前編第七章第四節(一)(1))、創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっているからであり、その上、後編第四章第七節に論述されているように、イエス以後二〇〇〇年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。イエスは、初臨のときには、ユダヤ教の反逆者であると見なされて亡くなられたのであったが、彼が再臨なさる民主主義社会においては、たとえ、彼が異端者として追われることがあるとしても、それによって死の立場にまで追いこまれるようなことはないのである。
それゆえに、再臨主がいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、彼が立てられる実体的な「信仰基台」の上で、彼を絶対的に信じ、彼に従い、彼に侍る信徒たちが集まって、第三次世界的カナン復帰の実体路程のための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を造成することによって「メシヤのための実体的な基台」をつくるようになることは確かである。
第三次民族的カナン復帰路程において、モーセのときには、磐石を中心とする「出発のための摂理」をするようになっていたのであるが、ヨシュアのときには、磐石よりももっと内的なそのわき水を中心とする「出発のための摂理」をされたのであった。これと同じく、イエスも初臨のときには奇跡をもって「出発のための摂理」をされたが、再臨のときには、それが内的なものとなった、み言を中心として「出発のための摂理」をされるのである。なぜなら、既に前編第三章第三節(二)において論及したように、み言をもって創造された人間が(ヨハネ一・3)、堕落によってみ言の目的を成就することができなかったのであるから、神はこの目的を再び完遂なさるためには、「み言」の外的な条件を立てて復帰摂理をなさり、摂理歴史の終末に至って、「み言」の実体であられるイエスを再び送られて、「み言」を中心とする救いの摂理をなさらなければならないからである。
神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。そして、最初に神の二性性相の形象的な実体対象として創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となるのである。それゆえに、彼らが夫婦となって子女を生み殖やし、父母の愛と夫婦の愛、そして子女の愛を表し、父母の心情と夫婦の心情、そして子女の心情によって結ばれる家庭をつくるようになっていたのであるが、これがすなわち三対象目的をなした四位基台であったのである(前編第一章第二節(三)参照)。
このように、神は天の血統を継承した直系の子女によって、地上天国をつくろうと計画されたのであった。しかし、既に堕落論において詳しく述べたように、人間始祖が天使長と血縁関係を結ぶことによって、すべての人類はサタンの血統を継承して、みな悪魔の子女となってしまったのである(マタイ三・7、マタイ二三・33<、ヨハネ八・44)。それゆえ、人間始祖は神と血縁関係を断ちきられた立場に陥ってしまったのであるが、これがすなわち堕落である(前編第二章参照)。
それゆえに、神の復帰摂理の目的は、このように神との血統関係が断たれてしまった堕落人間を復帰して、神の直系の血統的子女を立てようとするところにあるのである。我々は、このような神の復帰摂理の秘密を聖書から探してみることにしよう。
先に論じたように、堕落して殺戮行為をほしいままにしたアダム家庭は、神との関係を断たれてしまったのである。しかし、ノアのときに至って、その二番目の息子であり、アベルの立場におかれていたハムの、その失敗によって、神と直接的な関係を結ぶところにまでは行かれなかったが、それでもノアが忠誠を尽くした基台があったので、僕の僕(創九・25)としての立場に立つことができ、神と間接的な関係を結ぶことができたのである。これがすなわち、旧約前の時代における神と人間との関係であった。
信仰の父であるアブラハムのときに至り、彼は、「メシヤのための家庭的な基台」をつくって、神の選民を立てたので、彼らは初めて神の僕の立場に復帰することができた(レビ二五・55)。これがすなわち、旧約時代における神と人間との関係であった。イエスが来られてのち、洗礼ヨハネの立場でもって立てられた、その「信仰基台」の上に立っていた弟子たちは、初めて、旧約時代の僕の立場から、養子の立場にまで復帰されたのである。彼らが神の直系の血統的子女となるためには、イエスに絶対的に服従して「実体基台」をつくることにより、「メシヤのための基台」を造成し、その基台の上に立っているイエスに、霊肉併せて接がれることによって(ロマ一一・17)、彼と一体とならなければならなかったのである。
イエスは、原罪のない、神の血統を受けた直系のひとり子として来られ、堕落したすべての人類を彼に接がせて一体となることにより、彼らが原罪を脱いで神の直系の血統的子女として復帰することができるように摂理しようとしてこられたのである。イエスと聖霊とが、人類の真の父母として、このように堕落人間を接がせ、原罪を脱がしめることにより、神との創造本然の血統的因縁を結ばしめる摂理を、重生というのである(前編第七章第四節参照)。それゆえに、イエスは、野生のオリーブである堕落人間を接がせるために、善いオリーブとして来られた方であるということを、我々は知らなければならない。
しかし、弟子たちまでが不信に陥ったために、イエスは、洗礼ヨハネの立場から、一段上がってメシヤの立場に立つことができないままに、十字架で亡くなられたのである。それゆえ、復活したイエスが、霊的洗礼ヨハネの立場から、復活四十日のサタン分立期間をもって霊的な「信仰基台」を立てられたのち、悔い改めて戻ってきた弟子たちの信仰と忠節とによって、霊的な「実体基台」が立てられた結果、そこで初めて「メシヤのための霊的な基台」が造成されたのである。そしてついにこの霊的な基台の上に霊的メシヤとして立たれるようになったイエスに、霊的に接がれることによって、初めて信徒たちは、霊的な子女としてのみ立つようになったのであるが、これがすなわち、イエス以後今日に至るまでの霊的復帰摂理による神と堕落人間との関係であった。それゆえに、イエス以後の霊的復帰摂理は、あたかも神が霊界を先に創造されたように、そのようなかたちの霊的世界を、先に復帰していかれるのであるから、我々堕落人間はまだ、霊的にのみしか、神の対象として立つことができないのである。したがって、いくら信仰の篤いキリスト教信徒でも肉的に継承されてきた原罪を清算することができないままでいるので、サタンの血統を離脱できなかったという点においては、旧約時代の信徒たちと何ら異なるところがないのである(前編第四章第一節(四))。このように、キリスト教信徒たちは、神と血統を異にする子女であるので、神の前では養子とならざるを得ないのである。かつてパウロが、聖霊の最初の実をもっている私たち自身も、嘆いて養子とせられんことを待ち望んでいると言った理由も、実はここにあったのである (ロマ八・23)。
それゆえに、イエスは、すべての人類を、神の血統を受けた直系の子女として復帰するために、再臨されなくてはならないのである。したがって、彼は初臨のときと同じように、肉身をもって地上に誕生され、初臨のときの路程を再び歩まれることによって、それを蕩減復帰されなければならない。それゆえに、先に既に論じたように、再臨のイエスは、み言を中心とする「出発のための摂理」によって、「メシヤのための基台」を実体的に造成し、その基台の上で、すべての人類を霊肉併せて接がせることにより、彼らが原罪を脱いで、神の血統を受けた直系の子女として復帰できるようにしなければならないのである。
それゆえに、イエスは初臨のときに「メシヤのための家庭的な基台」の中心人物であったヤコブの立場を蕩減復帰なさるために、三人の弟子を中心として十二弟子を立てられることによって、家庭的な基台を立てられたのであり、また、七十人の門徒を立てられることによって、その基台を氏族的な基台にまで広めようとされたように、彼は、再臨される場合においても、その「メシヤのための基台」を、実体的に家庭的なものから出発して、順次、氏族的、民族的、国家的、世界的、天宙的なものとして復帰され、その基台の上に、天国を成就するところまで行かなければならないのである。
神は、将来、イエスが誕生されて、天国建設の目的をいちはやく成就させるために、第一イスラエル選民を立てることによってその土台を準備されたのであったが、彼らがそれに逆らったので、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立てられたように、もしも、再臨イエスの天国建設の理想のために第二イスラエルとして立たせられたキリスト教信徒たちが、またもや彼に背くならば、神はやむを得ず、その第二イスラエル選民をも捨てて新しく、第三イスラエル選民を選ばれるほか、致し方はないのである。それゆえに、終末に処しているキリスト教信徒たちは、イエスの初臨当時のユダヤ民族と同じく、最も幸福な環境の中におりながらも、また一方においては、最も不幸な立場に陥るかもしれない運命の岐路に立たされているとも考えられるのである。

(四)イエスの路程が見せてくれた教訓
第一に、ここにおいても、み旨に対する神の予定が、どのようなものであるかということを見せてくださった。神はいつでもそのみ旨を絶対的なものとして予定され、それを成就していくために、洗礼ヨハネがその使命を完遂し得なかったとき、メシヤとして来られたイエス御自身が、その使命を代理されてまでも、その目的を達成しようとされたのであったし、またユダヤ人たちの不信によって地上天国が立てられないようになったとき、イエスは再臨されてまでも、そのみ旨を絶対的に成就しようとなさるのである。
つぎに、選ばれたある個人、あるいは、ある民族を中心とするみ旨成就に対する神の予定は絶対的なものでなく、相対的なものであるということを見せてくださった。すなわち神は復帰摂理の目的を達成されるために、ある人物、または、ある民族を立てられたとしても、彼らが自己の責任分担を完遂することができないときには、必ず新しい使命者を立てられて、その使命を継承させたのであった。すなわち、イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれたのであるが、彼がその責任を完遂し得なかったために、その代わりとしてペテロを選ばれた。また、イスカリオテのユダを十二弟子の一人として選んだのであるが、彼が責任を全うし得なかったとき、彼の代わりにマッテヤを選ばれたのである(使徒一・26)。また、復帰摂理の目的を達成なさるためにユダヤ民族を選ばれたのであったが、彼らがその責任を全うすることができないようになったとき、その使命を、異邦人たちに移されたのであった(使徒一三・46、マタイ二一・33~43)。このようにいくらみ旨成就のために選ばれた存在であっても、彼を中心とするみ旨の成就は、決して絶対的なものとして予定なさることはできないのである。
つぎに神は、人間の責任分担に対しては干渉されず、その結果だけを見て主管されるということを見せてくださった。洗礼ヨハネやイスカリオテのユダが不信に陥ったとき、神はそれを知らなかったはずはなく、またそれを止め得ないはずもなかったのであるが、彼らの信仰に対しては一切干渉されず、その結果だけを見て主管されたのである。
つぎに、大きい使命を担った人物であればあるほど、彼に対する試練もまたそれに比例して大きいということをも見せてくださった。アダムが不信に陥り、神を捨てたために、後のアダムとして来られたイエスが、その復帰摂理の目的を成就されるためには、アダムの代わりに神から捨てられた立場をもって信仰を立て、その堕落前の立場を蕩減復帰しなければならなかったのである。それゆえにイエスは、荒野において、サタンの試練までも受けなければならなかったのであり、また、十字架上で神から見捨てられるということまで体験されなければならなかったのである(マタイ二七・46)。